第1章 宮殿から宮殿へ

この日は、大勢の人々が火と懸命に闘った一日でした。その時まさか私自身がこの焼け跡となった工場に関わりを持ち、ついには工場のオーナーとなってこの工場を立て直すことになるとは夢にも思いませんでした。 長い間私は磁器に情熱を注いでまいりました。チメルフ地方のボルカ・ボイスノフスカ出身の少年の冒険は、ひとつの宮殿に始まりもうひとつの宮殿へと導かれていったのです。その最初の宮殿は、ワルシャワの歴史的な「ベルベデーレ宮殿」で、最後に導かれたのがクラコフスキ・プシェドゥメシチェ48-49番地の「ワルシャワ大統領宮殿」です。 チメルフのフィギュリン(小像)にご興味をお持ちいただけるよう、これから皆さんを200年の歴史の世界にご案内しましょう。 これからお話するのは、学者や歴史家の論文や自伝ではなく、この窯が今日まで歩んだ物語です かくも美しく繊細なこれらのフィギュリンにどうかご関心をお持ちいただき、コレクションとしてお手元に置いていただけましたら幸いです。

その昔、王様や大公、諸侯、芸術を愛する教養人、やんごとなき紳士淑女は、磁器に深い関心を示していました。ポーランド国王スタニスラス・ポニアトフスキも例外ではありません。国王は1770年、磁器製造の最初の実験を行いました。ご承知のように、それは失敗に終わりました。後にいわゆる「ベルベデーレ宮殿のファイアンス(軟質陶器)」と呼ばれるやきものです。宮殿と関係する最初のできごとです。

「磁器」(白い金とさえ称された)は、光を透す非常にデリケートなやきもので、9世紀の中国でつくり始められました。(訳注:現在の研究では、後漢時代の2世紀頃磁器を焼いた窯跡が発見されています。) 1280年までの宋の時代に磁器が完成し、1368年に始まる明の時代には染め付けや赤、緑などで上絵付けした色絵磁器が盛んに焼かれました。14世紀の終わりになると人々はこぞって磁器を買い求めました。中国磁器に対する西洋人の熱狂は17世紀初頭に始まり、ヨーロッパ列強は財を傾けて収集を始めたのです。17世紀末頃にはヨーロッパの各地で、やきもの製作者たちが磁器製作の秘密を明かそうとやっきになりました 中国では400年も前から製法が知られていたのに、ヨーロッパでは、それをつきとめることができず、頭を悩ませていました。実験が何度も繰り返されましたが、一向に秘密を明かすことができません。とりわけ、中国製の磁器のように薄い器を高温で焼くことなどとても出来ません。しかたなく中国や日本から運ばれたやきものの絵柄を真似たり、そっくり写したり、それでさえ難しいものでした。1700年頃フランスのサン・クルーで、白土とフリット(半溶融ガラスを砕いた粉)を混ぜた軟質磁・磁器(ソフト・ペースト)が焼かれ、実験はなおも続きました。

ザクセン選定侯アウグスト2世強王、後のポーランド王は、ヨーロッパで最初に、ほとんど偶然ともいえる幸運に恵まれ、磁器の製法にゆきつきました。ザクセンは財政的理由から、錬金術師のヨハン=フリードリッヒ・ベトガーを雇い入れ、黄金づくりの秘法の解明を命じたのです。王はベトガーをマイセンにあるアルブレヒト城に幽閉し、成功の日を待ちました 製法の解明には長い年月を要し、ベトガーは一向に黄金を作り出すことができません。しびれを切らした王は、結果が出ないのならギロチンにかけると脅しました。ベトガーは黄金を生み出すことはできませんでしたが、代わりに磁器の製造に成功したのです。その発見の重要性に気付いたアウグスト強王は、1710年時を移さず、ドレスデンから25キロのマイセン城に工房を設立し、磁器製造を開始しました。ヨーロッパ磁器の歴史がこうして始まったのです。

 その頃マイセンにはライバルというものが存在しませんでした。アウグスト強王のもっとも大切な宝である磁器の秘密は固く守られていました。マイセン工房では、磁器製の小さなフィギュリンも作られていました。絵付け師のヨハン=ゴレゴリウス・ヘロルトや900種類以上のフィギュリンの原型を制作した偉大な彫刻家ヨハン=ヨアキム・ケンドラーなど、マイセンでは世界的に有名なアーチストが働いていたました ケンドラーは「パリの行商人」や「猿のオーケストラ」で有名です。私も英国でケンドラーの素晴らしい作品をみたことがあります。七年戦争が始まった1765年、マイセンは大変な困窮に見舞われました。それでもマイセンは二番手のウイーンの工房にも勝り、磁器界に君臨しました。

18世紀の有名な窯として他にも、ベルリン、セーヴル(パリ近郊)、英国のチェルシーやダービー、コペンハーゲン、ヘレンド(ハンガリー)などが挙げられます。私個人としては英国のウエッジウッドが大好きな窯です。ジョサイア・ウエッジウッドは、1754年からウィールドンの共同経営となり、ほどなく陶芸界に大きな影響を及ぼします。様々な珍しいタイプの陶器(マーブル模様のアゲイト・ウエアなど)や、緑や黄色の上絵つけ用の釉薬を完成させたのです。1758年に独立して工房を設立し、新タイプの陶器の研究に挑みます。最初の栄光をもたらしたのは、成形が容易で重さも軽いクリームの軟質陶器(クイーンズ・ウエア)です。最も有名なウエッジウッド製品といえば「ジャスパー・ウエア」でしょう。薄い石肌の素地で、一番有名なのは「ウエッジウッド・ブルー」とし色て親しまれている青の素地です。

 数年前にワルシャワ国立博物館でウエッジウッドのジャスパー・ウエアが展示されました ウエッジウッドの製品はヨーロッパじゅうで手本にされ、ポーランドのチメルフでも作られたことがあります。私もその美しさに魅せられ、真似できないかと思い、ジャスパー・ウエアで自分の肖像を作らせてみました。カタログに写真がありますのでご覧ください。

 ポーランドでは、17世紀後半のヤン3世ソビエスキの時代に、グリンスクやジューケフにラジビル一族のファイアンス(軟質陶器)工房がありましたが、いずれも磁器の製造はできませんでした。国の産業振興に熱意を燃やした国王スタニスラフ・ポニアトフスキの時代に、ベルベデーレ宮殿で磁器製作の実験が行われたのが始まりです。

 王のこころざしは、国の指導者たちに受け継がれました。とりわけヨセフ・チャルトルスキ公爵は、お金儲けというより、ステータスのために自分の工房を持つことを望みました。1783年彼は、国王の希望に応え、後に工房の主任となるフランソワ・ド・マゼールを雇い入れ、コジェッツに最初の工房が設立されました はじめファイアンスが焼かれ、やがて1790年に磁器の製造が開始され、ポーランド製の磁器が誕生したのです 製品はたいへん良く売れました。その功績を称え、フランソワ・ド・マゼールは国王スタニスラフ・ポニアトフスキから、ポーランド貴族に叙せられました。1794年フランソワ・ド・マゼールはコジェッツを離れ、トマシュフに新しい工房を設立しました。フランソワ・ド・マゼールの兄弟であるミッシェルと彼は、磁器の秘密がカオリンにあることを知っていました。トマシュフにカオリンの大鉱脈を発見し、1803年10月10日、バラヌフカに、磁器とファイアンスを生産する新工房を開きました。19世紀始め、他にもヴォルヒニェ、ホロドゥニツァ (1843年)、エミルチニ(1849年)、ドヴィビシュ(1840年)、バラシェ(1854年)など数人程度の職人を抱える小規模な工房がありました。

第2章 シヴィッツの黄金時代

 1950年代チメルフの磁器は、両大戦間(1920〜30年代)のデザインにそった伝統スタイルのものでした。とりわけここでご紹介する小像制作(フィギュリン)の分野では、昔のモデルがつくられていました。現在「小さなマドレーヌ」と呼ばれるボグミウ・マルチェネクの小像や、ユゼフ・シェフチクの「座る少女のランプ」(CM149)などが人気を得ていました。一方1950年代には、インダストリアル・デザイン・インスティチュート(IWP)のデザイナーたちが、前衛的な新デザインを展開してゆきます。それらは国内だけでなく国際的な評価を受けました。インダストリアル・デザイン・インスティチュートの監督下にあった当時の陶芸・ガラス工場には、マリア・ソボレフスカの指導のもとに、才能あふれるアーティストが大勢いました。インダストリアル・デザイン・インスティチュートとチメルフの「黄金時代」といわれる1956~65年には、ヘンリック・イェンドラシャク, ミェチスワフ・ナルシェヴィチ, ハンナ・オルトゥフェイン, ルボミル・トマシェフスキなど偉大なデザイナーたちが、今の我々の工場(シヴィッツ部門)でユニークな作品を制作していたのです。それらの鋳型は現在わたしの工場にあり、世界中から羨望の眼差しが注がれています。

 60年代につくられたフィギュリン(小型磁器彫像)は、ポーランドが小型磁器彫像で人気を博した黄金時代の始まりを表しています。それらの作品はライプチヒの見本市や、ニューヨーク、シカゴの展示会、モスクワの「第2回ポーランド産業博覧会」、ベルリンの「ポーランド・ガラス陶芸展」などに出展されました。作品はニューヨーク、シカゴ、パリ、ベルリン、モスクワその他ヨーロッパ各都市の美術館にも収蔵されています。その影響は国際的な広がりをみせ、とりわけカルフォルニア、ドイツ、チェコスロヴァキアに強い影響を与えました。それは工場の歴史上もっとも輝かしい芸術的成果のひとつであり、チメルフは、小型磁器彫刻が注目された20世紀において、マイセンやロイヤル・コペンハーゲンのモダニスム作品と肩をならべ、重要な位置を占めています。

 1970年代になるとポーランド経済全体の流れと市場の影響を受け、チメルフは新しい生産計画の立案を迫られました テーブルウエアの生産増強が求められたのです 小型フィギュリンの制作より、工場の規模拡大を目指すプランが立てられました ヴィンツェンティ・ポタツキや, カジミエシ チュバら優れたアーティストが依然デザインを行い、チェスワフ・ヴォシェクら優秀な鋳型職人がいたにもかかわらず、工場全体のなかでフィギュリンの製造は縮小され、次第に財政が逼迫してゆき、1991年シヴィッツはとうとう生産中止に追い込まれました 1994年、私は工房の一部を借り受け経営に参画し、2年後ふたつの工場のうち片方が競売にかけられることになりました 第1回目の競売が1996年に行われ、私はシヴィッツ工場のオーナーとなったのです もっとも大切なことは、その時工場内に残っていたフィギュリンの原型とオリジナル・モデルを手に入れることができたことです そして工場のゲートに、私自身の商標であるAS(アダム・スパワ)のマークを掲げました 1997年には民営化にともない、もう片方の会社も売りに出されました。その会社は新たに「有限会社チメルフ磁器製造所」となり、三角Cの マークが目印です 以上は200年の歴史を誇るチメルフの私の工場の歴史です。

 私はまず手始めに、磁器製のビアマグをつくり、気のきいた絵付けを施しました。またガラス製の無地のビアマグを仕入れ、それにも絵付けをして、気の利いたおみやげ品に仕上げました ビアマグはたいへんよく売れ、工場は次第に息を吹き返してゆきました。しかしそれは私の目標ではありません ミッドセンチュリーのフィギュリンを復興し、チメルフとその工場がかつての栄光を取り戻すことが、私の願いでした それはふたつの理由で、たいへんな努力とノウハウを必要とする難しい挑戦でした。第一に40年も技術が途絶えていたこと、第二に作品の原型や当時の製品の大半が、1964年の大火災で失われていたからです その一方、1950~60年代のチメルフのフィギュリンは、コレクターのあいだで人気を集めていました。猫、ヤギ、犬など、かつてわずかな金額で買えたチメルフの小さな磁器製の小像は、どこ美術品店でもオークションでも、非常に高値で取引されていました。なかなかめぐり合えない品物だけに、高価な値段がついているのです 私がつくり始めた復刻品も、そのあふれる魅力と可愛いらしさで、年毎に評価を高めています。オリジナルと同じように我々生産者にも、それを集める人々にも深い 歓びを与えてくれるのです。

 チメルフでは今でも昔から工場に関係している名工たちが働いています。なかには住み込みの職人もおり、彼らは就業後もすべての時間を芸術に捧げ、困難な制作への挑戦に、限りない喜びを見出しています。チェスワフ・ヴォシェクとズビシェク・ニェドバワのふたりは50年を超えるキャリアの持ち主です 「黄金の手」をもつ造形師チェスワフ・ヴォシェクは、生涯をチメルフに捧げたポーランド陶芸の巨匠ヴィンツェンティ・ポタツキの弟子にあたります 絵付け専門のデザイナー カジミエジ・チュバは、あらゆる絵の具のニュアンスを自在に使い分けることができます。工場で働くほとんどの職員が昔からチメルフに住む住民で、皆自分の仕事に誇りを抱いています。若者たちも、彼らの父親たちがその作品をつくり出したのと同じ情熱で、一歩一歩辛抱強く復元作業に従事しています。現在すでに70を超える作品が完成しており、残りすべてを復元し終わるには、今後20年はかかるでしょう。工場で働くズビグニェフ・ニェドバワ, イェジ・スタジョムスキ, チェスワフ ヴォシェクら諸君が、身をもって感じたように、すばらしい磁器をつくり出すには、技術面だけでなく、何より愛情が大切なのです 監督にあ たるヴワディスワヴァ・メンドゥリコフスカとそのチームの女性たち、エヴァ・ゴウェンビョフスカ, ボジェナ・コジェル, テレサ・サドゥロス, ドロタ・グリズらも同じように愛情を込め絵付け行っています。

 40年の空白と、デザインと鋳型の復元に費やした4年間のあと、2000年からフィギュリンの製造に入り、あわせて新しいデザインの製品にも着手しています。我々の工場の製品はすべてオリジナル・プロダクトです。なぜならすべてオリジナル原型をもとに制作しているからです。私の物語はこれで終わりますが、第一章の「宮殿から宮殿へ」というタイトルのもとになったチメルフに関係する大切な出来事、2002年9月23日、ワルシャワのクラコフスキ・プシェドゥメシチェ 48-49番地の大統領宮殿で行われた式典についてお話ししたいと思います。大統領宮殿の白の間で、私の工場で働いているチェスワフ・ヴォシェクが、ポーランドの名誉ある「ポーランド復刻十字騎士勲章」を授けられたのです ヨランタ・クファシニェフスカ大統領夫人列席のもとに、ポーランド文化財の復元に貢献した功績が称えられ、エドヴァルド・スタニスワフ・シマニスキ大臣から勲章が授与されました