ポーランドでの活躍

50年近くの空白の時を置いて世界的に著名なアーティスト、ルボミール・トマシェフスキー教授はチメルフ(CMIELOW)の陶磁器工場のために再び彫像のデザインを開始しました。1950年から1960年代にかけて、ワルシャワにある政府の工業デザイン機関の一労働者として、ミェチスワフ・ナルシェヴィチ(Mieczyslaw Naruszewicz)、ハンナ・オルトゥフェイン (Hanna Orthwein), ヘンリック・イェンドラシャク (Henryk Jedrasiak)等と共に新しい独創的スタイルの磁器フィギャを創り出しました。これが後にチメルフの磁器工場で製作されるようになった原型です。その頃がパターン・デザインの黄金期であったと言えますが、その時代は残念ながら長くは続きませんでした。ルボミール・トマシェフスキーはポーランドから移民として脱出しなければなりませんでした。この結果彼の輝かしい芸術的業績はポーランドではなくアメリカのものになってしまったのです。

5-6年前に、アダム・スパワはトマシェフスキー教授とやっと連絡が取れてチメルフにおいて「AS」社のために新しい彫像のデザインをするよう働きかけ、ついに、チメルフ訪問の約束を取り付けることが出来たのです。教授は永住しているアメリカ合衆国から2005年の7月、チメルフに到着し新しい彫像制作のデザインを持参してくれました。

ルボミール・トマシェフスキーは美術大学の彫像学科を1953年に卒業しましたが、それとは別にワルシャワの工科大学において設計を学んでいました。ほどなく、彼は数多くの賞を獲得しコンテストに選ばれるなど最もすぐれた彫像制作家として有名になりました。ただ、多くの信望者に賞賛される若い芸術家にとってポーランドの政治体制を受け入れることは困難なものでした。1944年のワルシャワ蜂起の戦いで負傷しドイツに連行された経験から、彼は共産主義を受け入れることはできませんでした。彼は芸術の世界における社会主義に鋭く対立したのです。

この卓越した教授はチメルフの工場にある昔の工房を見て思うものがありました。半世紀前の彼自身のデザインになる作品がそのままの形で生き残り継承されてきたことに喜びを覚えたのです。記憶がたちどころによみがえります。。。。

「ヘンリック・イェンドラシャクと共に、私たちは大きな彫像を創る野心を持っていたのです。彼が大学を優秀な成績で卒業した後、私たちは政府当局により発表されたワルシャワの科学文化宮殿のまわりの広場に建設される二つのモニュメント・コンテストに挑戦したのです。このプロジェクトは世界で最も偉大にしてすばらしい噴水になる予定でした。私たちが優勝したのです。この1955年の出来事は、この設計コンテストで獲得した賞金で私の家を建てることができたという事実によってもそのインパクトの大きさがわかると思います。残念ながらその噴水の制作が開始される寸前にPZPR Boleslaw Bierut第一書記が亡くなり、このプロジェクトは中止されてしまいました。私たちの努力は水泡と化してしまったのです。建設途中の我が家はまだ完成していませんでしたし、私は妻と子供を抱えて生活するお金もありませんでした。飢えとひもじさは2年間続いたのです。その後、大学を優秀な成績で卒業したヘンリック・イェンドラシャクがあるプロジェクトを見つけてきて、私を含め、ミェチスワフ・ナルシェヴィチ、ハンナ・オルトゥフェインに声をかけてくれたのです。

在学中、私たち4人は最優秀学生の部類に属していました。他の学生は共産主義者に仕えていたので、レーニンの胸像や「鎌と槌」を持つ労働者の像を制作していました。私たちは社会主義芸術のためよりも家族のために働こうと決めたのです。私たちを助けてくれたのはワンダ・テラコウスカ(Wanda Telakowska)でした。彼女は研究科学部門に1950年に設立されたワルシャワ工業パターン・デザイン・インスティテュートで私たちを採用してくれたのです。私たち4人はかなり著名な芸術家として小さな彫像制作を始めましたが、これにはすっかり夢中になってしまいました。それぞれの彫像は情熱を傾けて制作されました。私たちはあたかもモニュメント制作に携わるかのように一生懸命働きました。私たちは人々に現代的な形で美しく、誰もが自宅の棚に置いておけるものを提供することで社会の美意識を向上させ、人々の良い物を見る目を作り上げることができると信じていました。」

彫像は自然の精緻な観察により、その特徴的な姿、動き、動物の輪郭を取り入れ、逆に出来上がった理想の全体イメージを壊すような余分な要素の排除を行ないつつ、デザインされたのです。これらの繊細でユニークな彫像は磁器(Porcelain)または”シヴィッツ”−チメルフの工房の一部門の準磁器(Semi-Porcelain)で制作されました。ルボミール・トマシェフスキー氏の作品はポーランド女性の美を称えたものでした。ほっそりとした体型、長い足、長い髪、水兵パンツやビキニを身に付けたデザイン、ポニーテールに髪をピンで上げたデザイン、特に、女性の持ち物、例えば水差し、櫛、鏡、ギターなどを強調しました。これらの作品はモスクワ、ベルリン、ニューヨーク、シカゴで展示されたのです。これらの彫像のモデルは今に至るまで繊細なラインと力強い表現力を人々に印象付けています。「ミェチスワフ・ナルシェヴィチ(Mieczyslaw Naruszewicz)は4人のうちで一番ハンサムで、女性とすぐに仲良くなってしまうので彼はデザインに割く時間が少なかったのです。私たちにはプロジェクトの月間制作目標がありました。少なくとも月に一つのデザインを完了して、3ヶ月ごとに磁器のセットの一つをデザインできるというものでした。私は規則どおりにはやりませんでした。いくつかのプロジェクトを同時に行ない、その中から一番良い物を選ぶという方法を取ったのです。私たちは、大体、小動物やエキゾティックなフィギャ、更に子供や女性のポートレイトも創りました。勿論すべての物が実際の製造につながったわけではありませんが、少なくともデザイン制作の数についての目標は必ず実行されなければならなかったのです。」

ルボミール・トマシェフスキー氏は当時を振り返りながら「猫や小さなウサギ、ペンギン、美しい女性はどうやっても一つのデザインにしてしまうことは出来ません。」「そのうち私は磁器のティーセットに興味を持つようになりました。頭の中で水が一杯入ったティーポットを想像してお茶を注ぐときの中の液体の動いていく様子をどのように中のお茶は重心を移していくのか考えながら想像したのです。水差しとしての機能は当時私の三歳の娘でもティーポット一杯に入ったコーヒーを安全に注げることを前提に確認しました。私はそれまでどこにも存在しない総合的(Synthetic)なデザインをすることにしました。」その結果1962年に「Ina」と「Dorota」のコーヒーセットを創ったのです。この磁器のティーセットは海の貝に似たまったく新しい形をしています。「Ina」はフラットな感じで「Dorota」は少し背の高い形をしています。ティーポットもカップも伝統的な取っ手の形をしていません。コーヒーを飲むときは両手を使わなければなりません。イタリアのチョコレートの会社がやってきて「Ina」50万個を注文しました。ポーランドにある工場すべてを動員してもそんなに沢山は作れない量でした。そこで、私達は 注文を断りました。しかし、「Ina」と「Dorota」のコーヒーセットはポズナニやパリで展示されました。フランスのテレビ局が注目しました。西側諸国では「Ina」に注目しました。ローゼンタール氏自信が製作者の私自身を雇うことも含めてデザインの著作権を買おうとしました。そのためにローゼンタール氏がポーランドにやってきたのです。で、そのとき、あの社会主義国家の政府様は何をしてくれたと思いますか?ローゼンタール氏がポーランドへ来る前に、彼らは私にパスポートとビザを2週間で発行し(当時、パスポートをもらうには少なくとも通常2年は待たなければならなかったのです。)、私をパリに追い出したのです。そうとは知らず、私はこれまでの働きに対する報賞だと思い誰かに認められたことを誇りに思い有頂天になっていました。こうして私は(わざわざポーランドに来た)ローゼンタール氏と会うことができなかったのです。後になって彼は政府から「折角ですが私たちは社会主義国家としてのプライドを持っています。私たちだけでうまくやっていくことができます。西側の助けは必要ありません」と言われたことを聞かされました。私は政府のこうしたやりかたを許すことが出来ませんでした。馬鹿にされ侮辱されたと感じたのです。私は芸術における社会主義というものを受け入れることはできませんでした。その結果注文も仕事も私には無かったのです。それから何度も国を出ることを考えるようになりました。そしてある時私の親戚がアメリカに呼び寄せてくれるという機会がやってきました。私はアメリカに渡り、戻らないことを決めました。その結果、ひどい脅迫があったとしてもあるいは私の家族内の関係に悪い結果をもたらしたとしても戻らないことを決めたのです。勿論、私の家内も一緒に行けませんでした。5年経ってやっと私の娘たちがアメリカにやってくることができたのです。最初は、たいへん厳しいものでした。ルボミール・トマシェフスキーは石や金属のかけらを使った作品を売って生活をしていましたが、やがて彼の芸術と自然を一体化したいという純粋な夢は満たされるようになって来ました。彼はより大きな彫像を創り、ニューヨーク近代美術館(MOMA)の小さなギャラリーで展示されました。これは非常勤でブリッジポート大学、アメリカでは現代デザインに関する二つのすぐれた大学の一つ、で講師をしてもらっていたサラリーへのボーナスでした。「私は生徒に形を教えたのです。ただ、私は常に人間の各要素の役割について言い続けてきました。私はこれを人体測定学(Anthropometry)と呼びます。これは例えば体の各要素の動きによって作り出される人間の形についてなどの人間工学からくる発見にも影響を受けています。私は東海岸でもっともすぐれた教師と考えられていました。」