曹洞宗 青龍山 林泉寺 茗荷谷陵苑 縁(えにし)の園

文京区小日向4-7-4
TEL 03-3943-0605
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駅から茗荷坂(仮称:風の通る道)を下り、拓殖大学の手前左側に曹洞宗 青龍山 林泉寺の入口があります。駅から1分足らずのお寺です。5年ほど前に大きな工事が行われてすっかり見違えるようになりました。 入口はモダンなホテルのような外観ですが、エレベーターであがると立派な本堂が現れ、その向かいには「縛られ地蔵」があります。
開基の慶長7年(1602年)と言えば、まだ関ヶ原の戦い(1600年)が終わったばかり。徳川幕府誕生の少し前に、広さは異なりますがほとんど現在と同じ場所に伊藤半兵衛長光を開基として曹洞宗(禅宗)のお寺が建立されました。付近のお寺の開基の時期は伝明寺(1625年)、徳雲寺(1630年)、深光寺(1639年)ですから、界隈ではもっとも早く建てられたお寺でした。谷を見おろす小石川の台地の外れ、後に将軍が鷹狩に来るような人里離れた場所だったのでしょう。清水谷ともよばれ湧水から小さな池の近くには茗荷(たぶん)、そこから小川も流れ出ていたようです。
「縛られ地蔵」が有名です。願をかけてお地蔵様を縄で縛り、願がかなった時にこれをほどく。これが享保17年(1732年)初版の江戸時代の地誌「江戸砂子」巻の四「小日向」や、明和8年(1771年)の「御府内寺社備考」などにも取り上げられ嘉永7年(1854年)発行の江戸切絵図二十六小石川絵図にも林泉寺の脇に「シバラレ地蔵」とわざわざ記述されているほどです。
文化11年(1814年)に書かれた「十方庵敬順遊歴雑記」(小日向の生西寺のご住職が江戸内外の名所旧跡を巡りながら書いた書物)には、林泉寺山門の外にあったお地蔵様が多くの人々に縛られたり解かれたりで損傷が激しくお顔も定かではなくなったため、お地蔵様を寺内の墓地近くに引き揚げたところ、その夜ご住職の夢にお地蔵様が現れ、「私は昔から門の外で往来の人々の願いをかなえてきた。ここに置かれるのは本意ではない。ただちに元の場所に戻しなさい」。 そこでお寺ではすぐに門の外に小堂を建てお納めしたと書かれています。たいへんご利益のあるお地蔵様で世継ぎが生まれた、病が全快したなどその功徳の例も書かれ、境内には寺領に加え門前町屋用にと131坪も拝領して大層賑わったようです。御府内寺社備考の境内図には門前町屋、山門の外に置かれた「地蔵堂」が描かれています。
「しばられ地蔵」を検索すると「大岡裁き」と併せて葛飾の「南蔵院」も登場します。ただ、南蔵院に地蔵堂が作られたのが林泉寺開基から100年後の元禄14年(1701年)、火事や水害で何度か場所も大きく変わっています。1854年発行の江戸切り絵図にもお地蔵様のことは一切掲載されていません(スペースがなかったのかもしれませんが)。従って、江戸時代を通じて「しばられ地蔵」として一般的だったのは林泉寺。後から大岡裁きのお地蔵様をつないだのが南蔵院だったのではないでしょうか(想像です)。
年末にお地蔵様の縄を解いて全身を拝見できます。ほどいた縄はお焚き上げ。きれいになったお地蔵様は翌年1月末にはもう元のがんじがらめの状態に戻ってしまうほど今でも人気です。
第34世江田真人住職は、鶴見の曹洞宗大本山総持寺で修行。石州流林泉寺派茶道の家元でもあります。地域に開かれたお寺として茶道、写経、武道のお稽古、常連の外国の方もいる座禅会なども定期的に開催しています。
「間口は広く、敷居は低く、懐は深い」お寺をめざして本堂の建て替えと併せて「縁の園」が完成しました。最新式の納骨堂では、登録カードを当てると参拝用の個室にお墓が登場、登録された故人の写真などもモニターに表示されます。宗派を問いません(キリスト教でも)。葬儀からお墓参りまでを駅から1分の最新設備が整った歴史あるお寺1個所でできてしまう時代になりました。(7月29日)

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