チメルフと磁器の創生

FABRYKA PORCELANY ASの設立と成功

このチメルフは、1790年にファイアンスと陶器窯が出来て以来、陶磁器の生産で有名な場所でしたが、1950年から1960年代にかけて革新的な彫像作家の出現と斬新なデザインの小さなフィギュアが諸外国に歓迎されるようになるまでマイセンなどと較べると知名度の低い状態が続きました。

この当時の小さな磁器フィギュアはヨーロッパの収集家に人気の高いものでしたが、数が少ない状態でした。現在のオーナーが廃墟と化した地下に40年以上の長い間放って置かれたモールドの数々を発見し、近年復刻を開始したというニュースはこれらのコレクターにたいへん歓迎されました。

話は遡りますが、18世紀から20世紀初頭にかけてファイアンスと陶器窯チメルフ製造所は次々とオーナーが代わりましたが、基本的には順調な伸びを示していました。ところが、1936年に工場で働いていた8人の野心的な職長が一斉に職を辞し、わずか1Kmしか離れていないライバル会社 シヴィッツ(SWIT)磁器製作所に移ってしまいました。

ところが1939年第二次世界大戦勃発によりチメルフ製造所もシヴィッツ磁器製作所もドイツ軍に接収され、この状態は1945年にチメルフが解放されるまで続いたのです。解放後はポーランド国家の管理下に置かれていました。

1950年代から60年代にかけてはチメルフの「黄金時代」と言われた時期でした。
ポーランドのインダストリアル・デザイン・インスティテュート(IWP)をリードしたマリア・ソボレフスカにより、優秀なデザイナーが養成され次から次へと新しい作品を世に生み出し、世界にその名を広めることになりました。

1958年にはアメリカのメディアがチメルフの成功を伝え、ニューヨーク、シカゴ、フィラデルフィア、パリ、ロンドン、モスクワ、ベルリン、ソフィアなどでエキジビションが展開され、この間、ポズナニの展示会、パリの展示会ではトマシェフスキー教授がゴールドメダルを授与されるなど順調な発展ぶりを見せていました。

ところが1964年5月に工場は大火事災難に見舞われ、その後、再建はされましたが、一斉を風靡したフィギュアよりもむしろ食器などの生活用品を主体とした生産に重点が置かれるようになりフィギュアの原型も放置されたまま散逸する状況が続き、工場自体も1990年の自由化されたポーランド共和国への移行の翌年には完全に閉鎖されてしまいました。

現在この工房のブランド名になっているアダム・スパワ氏(AS)が正式にオーナーになったのは1996年のことですが、重要なことは彼はこの工場のオーナーになると同時にミッドセンチュリに一斉を風靡したフィギャやその原型となる「モールド」のオーナーになったということです。

現オーナーのアダム・スパワ氏は彼が8歳のときにこの1964年5月の工場大火を間近で見ています。彼は、当時の栄光を取り戻すため工場の地下室に散逸し放置されていたフィギャのモールドを集め、修復し、復刻することを決意したのです。

そのため、彼はチメルフに存命する当時のモールド製作者やペインターを再雇用しました。 彼らは現在後進の育成に努めています。

また、1960年に「野うさぎの子供(CM043)」を制作したチュバ氏やナルシェヴィチ氏にも協力を依頼することに成功しました。

約4年間の準備期間を経て2000年から少しずつ復刻したチメルフのフィギャの販売を開始しました。

こうした地道なポーランドの誇る芸術文化への貢献は2002年9月23日ポーランド大統領府より「ポーランドの文化財の復元に貢献した」勲章を授与されるまでになりました。

アダム・スパワ氏は「すべてを復刻するまでに更に15年程かかる」との見通しを立てています。