傳通院鎮守 澤蔵司稲荷
浄土宗 慈眼院 傳通院鎮守 沢蔵司稲荷
文京区小石川3丁目17番12号
電話 03-3811-1327
Web http://www.takuzousuinari.com
ご住職ブログ http://blog.takuzousuinari.com
http://www.tesshow.jp/bunkyo/temple_koishikawa_jigan.html
「子供のころはここから東大の安田講堂や両国の花火が見えたものです」。
10年ほど前まで遊具があった広場で遠田住職は懐かしそうに語ってくれました。遠田住職(月組)は私(雪組)と明照幼稚園を昭和29年(1954年)卒業の同期生です。遠田慈眼院ご住職の名刺には併せて「傳通院鎮守 澤蔵司稲荷 別当」とあります。
慶長8年(1603年)、徳川家康の母於大の方(法名:伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼)埋葬のためこの地に建立された伝通院には浄土宗の学問所があり、修行僧たちが寝泊まりしていたのが学寮(学生寮)でした。
ちなみに於大の方が荼毘にふされたのは今の一中の校庭のあたりだったそうです。
その学寮にいた修行僧の一人 「沢蔵司」が実は千代田城(江戸城)に祀られていた稲荷大明神と身を明し、「修行のお礼に以後傳通院を保護しよう」とのお告げで傳通院塔頭のひとつ「慈眼院」の境内に建てられたのが「沢蔵司稲荷」です。元和6年(1620年)のことでした。
ただ、最近澤蔵司の境内から発見された高さ70cmほどの「板碑」の年代が特定されて古いものは南北朝時代の興国2年(1341年)にまで遡ることがわかったとか。
「慈眼院建立以前からこの地には寺院があったようです。」今の稲荷社殿は南向きですが、以前の社殿は西の伝通院に向いて建てられていたそうで、境内には「旧社殿跡」を記す石碑があります。
遠田住職によれば、この旧社殿は「太田道灌公が千代田城建立の際、光が見えた乾の方向に稲荷を祀ったそうですが、これを小石川の山上に移築したのが始まりではないか」と考えています。
本堂の裏、ご神殿の厨子には大田道灌の念持仏、十一面観音像(非公開)と澤蔵司尊像(ご本人が彫ったものと伝えられています。例年春季例大祭4月9日に開帳)が祀られています。
約800坪の広い境内には小さな祠や様々な形の狐が置かれていますが、これらは持ち込まれたものです。昔はだいたいどのビルの屋上にもお稲荷さんがありましたが、建て替え工事などで行き場の無くなってしまい持ち込まれることも多いとのこと。「裏の倉庫にはまだ沢山あります」。と遠田住職。「境内の整備を進めて徐々に出して行きたい」そうです。
そう言えば、境内を見渡せば、大黒天、お地蔵様、観音様、お不動さんからミニの五重塔まで様々オブジェが一杯です。
本殿裏手の「おあな(穴)」へ向かう参道あたり一帯は樹齢数百年の鎮守の森。空襲の際、伝通院からの類焼をここで食い止め、隣接する善光寺や近隣の住宅を守ってくれたそうです。「この鎮守の森の手入れは街の植木屋さんではできなくて、本職の木こりの方に頼んでいます」。またこの辺りの岩石は富士山の溶岩を運び込んだものとか。これから境内がどんなふうに整備されていくのがたいへん楽しみです。
「お穴」は、遠く小石川植物園内のお稲荷さん(太郎・次郎稲荷)まで続いているという言い伝えもあるそうです。 澤蔵司稲荷はワンダーランドですね。
本日も「萬盛」さんから初茹で(初釜)の稲荷蕎麦が奉納されました。 これも毎日続いて400年。 「稲荷蕎麦奉納は昔から続く」と江戸時代の文献にもあるそうです。 これは驚きです。
(2016,12,20)
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